私が歩んだ3つのフェーズの全貌
第0章・話5|はじめに
失敗は、終点ではない。
飲食2店舗を畳んだ私が次にやったことは、「もう一度やる」ことだった。ただし、同じやり方では絶対にやらない、という強い意志を持って。
今回は私が歩んだ「次の事業」の話をする。バングラデシュからの輸入貿易、コロナ禍での決断、中古車輸出への転換、そして年商1億円を超えたところで訪れたバイアウト。
この話は「成功談」ではない。失敗から何を学び、どう仕組みを変えたかの記録だ。
2社目の始まり──飲食を畳む1年前
2社目を立ち上げたのは、1社目の飲食店を畳う1年ほど前のことだった。
正確には、飲食事業がまだ動いている最中に、並行して立ち上げた。そのとき一緒に創業したのは、1社目の飲食店でともに働いたスタッフの一人だった。
なぜ飲食が苦しい時期に、新しい事業を始めたのか。
「このまま飲食だけに頼り続けるのは危険だ」という直感が、その頃すでにあった。売上は頭打ちで、固定費は重く、出口が見えなかった。新しい収益源を作らなければ、という焦りと希望が半々に混ざった状態で、2社目のドアを叩いた。
事業の柱として選んだのは、バングラデシュからの輸入貿易だった。
バングラデシュ貿易とOEM──「作って、売る」の原型
バングラデシュは、縫製産業において世界有数の製造基地だ。品質と価格のバランスが取れた製品を、日本の卸業者に納品するビジネスモデルを選んだ。
事業の流れはシンプルだった。
バングラデシュの工場と直接交渉し、日本の卸業者が求める仕様で製品を発注する。OEM(相手先ブランド製造)も手がけ、卸業者のオリジナルブランドとして商品を製作・納品するケースも増えていった。
飲食事業と根本的に違ったのは、固定費の構造だった。
店舗も、厨房設備も、毎月の家賃も、大人数のスタッフも、いらない。必要なのは、仕入れと物流と交渉力だ。在庫リスクはあるが、飲食のような「売上ゼロでも毎月130万円の家賃が出ていく」という重さはなかった。
この「固定費が軽い構造」こそが、2社目を選んだ理由の一つだった。1社目の失敗が、事業構造の選び方を変えていた。
コロナ禍の直撃──商品が届かない日々
順調に見えた貿易事業に、2020年、コロナ禍が直撃した。
国際物流が麻痺した。バングラデシュからの貨物が港で止まり、納品スケジュールが崩れ、日本の卸業者からのキャンセルが相次いだ。「いつ届くかわからない」という状況は、信頼の問題でもあった。
売上は急激に落ちた。
そのとき私が取った判断は、多くの人にとって意外に映るかもしれない。
大手宅配会社に就職した。
会社を辞めたのではない。経営は続けながら、自分自身が社員として就職した。役員報酬を限界まで圧縮し、給与収入で生活費をまかないながら、会社のキャッシュを守る選択をした。
なぜ「就職」という選択をしたのか
これは、1社目の失敗から学んだ「資金を絶やさない設計」の実践だった。
コロナ禍で売上が落ちた状態で、役員報酬を維持すれば会社のキャッシュはみるみる減る。貿易事業は、在庫を持ち、物流コストを先払いし、売上が後から入ってくるビジネスだ。手元資金が薄くなれば、次の仕入れができなくなる。それは事業の死を意味した。
「自分の給与を会社から引き出すのをやめる」という選択が、会社のランウェイを大幅に延ばした。
役員報酬を月数万円まで抑え、生活は就職先の給与で回す。会社のキャッシュには、できる限り手をつけない。この構造を作ることで、コロナ禍という嵐の中でも会社が「生き続ける状態」を維持した。
宅配会社の仕事は、決してラクではなかった。体力的にも、精神的にも消耗する日々だった。だが「会社を守るための選択」と腹を決めていたから、続けられた。
中古車輸出という「新しい柱」
コロナ禍で貿易が止まっている間、私はもう一つの事業を静かに育てていた。
中古車の輸出だ。
日本の中古車は、海外市場では高い評価を受けている。品質の信頼性、走行距離の正確さ、整備履歴の透明性。これらが海外バイヤーに評価され、アジアやアフリカ、中東への需要は根強い。
バングラデシュとの貿易で培った「海外との交渉」「輸出入のオペレーション」「国際物流の知識」が、そのまま中古車輸出に活きた。異なる商材でも、貿易の「型」は同じだった。
中古車輸出は、繊維製品と異なり「コロナの影響を受けにくい商材」だった。物流は動き、需要は海外にあり、仕入れは国内でできる。貿易事業が止まっている間のキャッシュを補う柱として機能し始めた。
コロナが明けて、業績が上向いた
2022年以降、コロナの影響が薄れるにつれて、事業は急速に回復した。
バングラデシュからの輸入貿易も再開し、OEM案件の引き合いも戻ってきた。並行して伸ばしていた中古車輸出も、月を追うごとに取引量が増えた。
そして創業から数年後、年商が1億円を超えた。
飲食2店舗で月商800万円、年商換算で9,600万円を稼いでいた頃と比べて、数字だけ見れば近い水準に見えるかもしれない。だが根本的に違うことが一つあった。
キャッシュが残っていた。
固定費が軽い構造を選んだこと。コロナ禍で役員報酬を抑えてキャッシュを守ったこと。複数の商材で収益を分散させたこと。これらが積み重なり、年商1億円という数字の裏に、実際に会社に残るキャッシュが生まれていた。
1社目の「月商800万円・バーン100万円のマイナス」とは、まったく異なる財務構造だった。
投資家からの「買いたい」という一言
年商1億円を超えたある日、一本の連絡が来た。
「御社を買いたい」という話だった。
投資家からのアプローチだった。事業の内容、成長性、財務の健全性を評価してくれていた。
正直に言えば、最初は迷った。
「まだやれることがある」という気持ちもあった。でも同時に、「この会社を次のステージに連れていくための最善の形は何か」という問いが頭に浮かんだ。
その問いに向き合ったとき、売却という選択が「逃げ」ではなく「設計の一つ」として見えてきた。
バイアウトとは、事業の価値が最大化された瞬間に、最もその価値を活かせる人に渡すことだ。自分が持ち続けることだけが「経営者の成功」ではない。
交渉の末、会社は売却された。
3つのフェーズが教えてくれたこと
振り返ると、私が歩んだ道は3つのフェーズに分かれている。
フェーズ1:飲食2店舗(失敗)
資金を絶やさない仕組みがなかった。財務をチームに開かなかった。固定費の重さに押しつぶされた。
フェーズ2:貿易事業・コロナ禍(耐える)
固定費の軽い構造を選んだ。役員報酬を圧縮してキャッシュを守った。複数商材で収益を分散させた。就職という非常手段でランウェイを延ばした。
フェーズ3:年商1億・バイアウト(実る)
キャッシュが残る財務構造が機能した。事業の価値が市場に評価された。売却という「設計された出口」に至った。
この3つのフェーズを通じて、2つの原理が一貫して経営判断の軸にあった。
資金を絶やさない設計と、自他同然を制度として埋め込むこと。
フェーズ1ではこの2つが欠けていた。フェーズ2では、少なくとも「資金を絶やさない設計」を死に物狂いで実践した。フェーズ3では、その積み重ねが事業の価値として結実した。
今日やること(チェックリスト)
□ 自社のビジネスモデルの「固定費の重さ」を書き出した
(売上がゼロになっても毎月必ず出ていく費用の合計)
□ 自社の「ランウェイ」を現時点で計算した
(現預金 ÷ 月次ネットバーン)
□ 「最悪のシナリオでも会社を生かし続けるために、
自分が今できる1つのこと」を紙に書いた
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コロナ禍という誰も予測できなかった危機の中で、私が会社を生かし続けられたのは「最悪のシナリオを想定して、先に動いていたから」だ。最悪を想定することは、悲観主義ではない。現実主義の経営者が持つ最強の習慣だ。
次回(第0章・話6)では、この連載全体の「読み進め方」の深掘りをする。第1章から第5章という「即効パート」をなぜ最初に実装すべきなのか。著者の3つのフェーズと連載の11章がどう対応しているのか。自分のフェーズに合った読み方を設計する方法をお届けする。
失敗は地図だ。次の旅をより正確に進むための、書き込まれた地図だ。
あなたが今手にしているこの連載は、その地図をもとに設計されている。


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